神道の鏡や霊璽、玉串は何のためにあるの?

2022.12.01

神道のお葬式、神葬祭で大事なものが3つあります。
鏡(かがみ)、霊璽(れいじ)、玉串(たまぐし)です。

ご自宅に神棚がある方、よく神社にお参りに行かれる方は、違和感なく受け入れている方が多いかもしれません。
本コラムでは、神道における鏡や霊璽、玉串の意味をご説明します。

神道における鏡とは

ご神体としての鏡

古事記や日本書紀にあるように、ある時天照大御神が岩戸にお隠れになった時、そのお姿をお映しになり、とても高貴な神の存在を認めたことから、神霊を映すもの、転じて神の依り代としての考え方が生まれました。
鏡の池などの逸話がある地域でも、物をあるがままに映すことの貴重さや神秘性により、神域として今日にも伝わっています。

神社のご神体として神鏡が多くあるのは、目に見えない世界である幽世(かくりよ)と、目に見える世界である顕世(うつしよ)をつなぐ、神秘なる力が鏡に宿ると考えられていたからです。

また神道では、私たちが生活する物質のある世界を現世(うつしよ)と呼ぶ理由も、「この世界の物事を表すのは、誰かの認識によって映る世界である」という神秘性のもととなる考え方のためでもあります。

神具、意義物としての鏡

神社のご神体の手前に、神棚では神社のお札を飾ったうえで手前に鏡を置く場合は、その神域を荘厳な形で表す、神意をあらわすための物として考えます。

その昔、銅鏡の時代は、鏡は銅をひたすら手で磨いて鏡面に仕上げていたため、とても貴重な品でした。
また、あるがままを映すという特性をもった鏡は、霊性の高い物でもあると考えられており、「高級で神秘的なものの代名詞である鏡を供えるほど、威徳のある神様である」という意義を持たせているのです。
この鏡を通して神様と自分が向かい合い、誠実で清らかな心でお参りができるようにと思いも込められています。

さらに、古事記や日本書紀で天照大御神様を映したことから、鏡は日本の天皇家に三種の神器の一つとして伝わっています。
日本の神社、場合によっては神棚にも五色の旗を一対立て、その旗の上端には3種の神器を掲げることが多いです。

五色の旗は木・火・土・金・水を色で表した、森羅万象の象徴です。
そこに、現世を治める天皇家の象徴である3種の神器が掲げられることにより、天下の理は泰平であると定めているためです。

神道のご葬儀での鏡

神道の葬儀である「神葬祭」で鏡を置く場合は、幽世と現世をつなぐ神秘性と、霊性(神)の依り代としての側面が強く意識されます。

身人世の限りとして、身体から離れた霊魂を再び霊璽(れいじ)にと遷えり給うために、仮の依り代として鏡に魂を招き、その後に遷霊の儀にて霊璽に改めて鎮まりたまう。
鏡は故人の魂を招くためのものです。
また威徳ある神を鏡にお招きし、その御前にて遷霊の儀を行うための、神の依り代としての鏡という意味もあります。
これはいずれも、お宮の中に鏡があり、御簾の内側にある場合の考え方です。
お宮の外に鏡がある場合は、その霊性により、会葬の方が故人の御霊と通じ合うためのものという意味になります。

霊璽(れいじ)とは

霊璽(れいじ)は御霊代(みたましろ)とも言い、魂の依り代をさします。
仏教における位牌のようなものと考えると、イメージしやすいかもしれません。

神道の葬儀である神葬祭において一番大事なことは、その故人様の魂は永遠不滅であることをあらわすことです。

人の魂は、神道においては幽世、見えない世界よりたまたま宿ったものであると考えます。霊魂の霊は『ひ』と読むことができ、その『ひ』がとまることから『ひと』であるという考え方があります。

身体があり霊を宿した世の終わりとして、その魂は再び幽世(かくりよ)に帰ることから、多くの葬儀の場では帰幽(きゆ)、と表します。
帰幽された御霊は、目に見えない世界に帰られています。
暗い場所から明るい場所がよく見えるように、明るい場所から暗い場所がよく見えないように。

残された家族や親族は悲しく、悔しく思ってしまいます。
帰幽された方からはその姿がよく見えると言われており、その寂しさ、悔しさを見て故人様が悲しまれないように、また残された方が少しでも心安らかになれるよう、霊魂を霊璽に遷し、その家の守り神としての位を持ち、永遠に共にあることをあらわすための儀式が、遷霊の儀です。

霊璽に書かれていること

霊璽は、鞘、台座、札の3つに分かれます。台座に札が刺され、表に諡(おくりな)が書かれます。
裏には帰幽年月日と満年齢が書かれることが多いですが、地域によっては数え年で記載されることもあります。
日常では、札の部分には鞘があてがわれて、記入されている文字は見ることができません。
この鞘は、特別な祭祀の時に外します。

遷霊の儀の時や、以後の年祀の時、家によっては月命日の時にその方の鞘を外し、お名前を見て偲びます。

諡(おくりな)は基本的には元の氏名をそのまま記入します。

75歳の葬儀 太郎という方の場合、原則的には、葬儀太郎命霊(そうぎたろうのみことのみたま)という書き方になりますが、男性の場合は立派な人である大人(うし)の文字を入れて葬儀太郎大人霊(そうぎたろううしのみことのみたま)と記入されます。
尊称には、一角の男性は、大人(うし)。女性は刀自(とじ)。さらに特に齢を重ねた男性に、翁(おきな)。女性に媼(おみな)。15歳以下の子供には稚児(わくこ)などがあります。
地域によっては記入に慣習があり、命で終わる場合もあれば、命霊、または霊位と記する場合もあります。

霊璽は白木で作られたものが多い

黒塗りの霊璽はありません。
霊璽は白木で作られたものが多く、位牌と違い漆などで保護はしません。
ご自宅で霊璽を祀る場合は、神棚とは別に祖霊舎(それいしゃ)または御霊屋(みたまや)を備えてお祀りします。
手に触れたり、動かしたりすることが周年祭の時に限られるため、白木に鞘を当てるだけのつくりになっているのです。

神道の周年祭は、帰幽年月日から10日、50日、100日、1年、5年、10年、以下50年までは10年ごとに行うこともあります。50年、100年で祀り上げとなります。
祀り上げとは、個人としての祭礼を最後とし、以後はその家の祖霊の一柱として合祀を執り行います。

玉串とは

神社本庁のホームページによると、“玉串は神霊に敬意を表し、かつ神威を受けるために祈念を込めて捧げるものである”と説明されています。
引用:神社本庁「玉串の意味について」

神葬祭にならって解釈すると、玉串の玉は魂を表し、串はものとものをつなぐ意味を持ちます。
また『くし』の言葉には、数多の物を束ねるという意味があり、魂をつなげるための儀式が玉串拝礼です。
神社で玉串の拝礼をするときは、神社の祭神と自身の魂をつなげ、その神性を得るための儀式となります。
神葬祭においては、自身の気持ち、心を故人に伝えるための儀式となります。

拝礼に際しての作法は、玉串に祈念をして捧げ、2拝2拍手1拝で行います。
拍手(はくしゅ、かしわで)は偲手(しのびて)にて行います。
偲手は音を立てない作法と言われていますが、本義としては、葬儀という悲しく悔しい場面で、祈念の際に込めた心が大きすぎて、故人を偲ぶあまり、力が入らず、音が鳴らなかった様を表しています。

鏡や霊璽、玉串は故人や神様を崇めるために欠かせないもの

神道において、死とは身体と魂の遊離を表します。
身体から離れた魂の行方は誰にも分からないので、鏡で神域を清めることでふさわしい場所と時間を定め、遷霊の儀をもって依り代に招き、依り代から霊璽に遷つりいただきます。
霊璽に宿る魂と玉串によって、私たちと先祖とのつながりを得るのです。
神葬祭は、永遠不滅の魂と共に生きていく新たな一歩を踏み出すため、先に幽世に帰られた方と今後も現世で営みを続ける者との新しい約束の場所であると言えます。